紅茶の歴史

【紅茶の歴史】ヴィクトルア女王の時代

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ジン横丁

ホガースのジン横丁

この絵、ご覧になったことはありますか?高校の世界史の本などではよく見られるので、見たことはあるなという方もあるかもしれませんね。作品のタイトルは「ジン横丁Gin Lane」、作者はウイリアム・ホガースWilliam Hogarthです。

18世紀の半ばから始まった産業革命によって、大英帝国は華やかな繁栄の時代を迎えましたが、その一方で格差と貧困、そして都市への人口集中、それにともなう劣悪な都市環境の悪化が社会問題となっていました。

そうしたなかで描かれたのがこの絵です。

実は、この絵はもともと「ビール通りとジン横丁Beer Street and Gin Lane」という2枚組の版画なのですが、ビールを善、ジンを悪として描いています。その悪の方であるこの絵を見てみると、かなりすさんだ状況がみてとれます。

画面中央の酔って子どもを落としてしまう母親も強烈ですが、画面右上には首つりの死体、画面奥には棺桶と死体といったおどろおどろしいものが描かれています。これが、すべてジンを飲むことによる結果だというわけです。

産業革命によって広がった格差により、大人はもちろんのこと、劣悪な労働環境で幼い子どもや女性も働かされるようになりました。そのストレスのはけ口を、人々はお酒に求めたのです。男性は仕事帰りにパブに入り浸り、貧しい家計をさらに圧迫。また、「ジン横丁」右中央に描かれているように、女性の中にはむずかる子供にジンを与えて眠らせるなどいった虐待を行うケースもありました。

このようなアルコールの過剰摂取による弊害は、劣悪な都市環境や労働条件とともに社会問題と認識されるようになり、イギリス議会は、労働者階級の犯罪や窮乏の主要因は「飲酒」にあると位置づけます。

そこで、始まったのが「禁酒運動(tee'total)」です。

ティートータルとは

tee'」は、「絶対に」という強調を示す言葉で、発音はお茶のteaに似ています。ここから、「絶対に」の「tee'」に「お茶」の「tea」をかけて、「アルコールの代わりに、お茶を」というスローガンのもと、全英規模で禁酒運動が展開されることとなりました。

つまり、お酒ではなくお茶を飲みましょう、という運動です。

まず、1830年に「禁酒協会」が設立されます。そしてその3年後、同会の主催でクリスマスにティーパーティーが開かれました。このティーパーティーは、1200人もの人々が参加するという大変な盛況ぶりであったといいます。

その後、1839年には16歳以下の子供にビール以外のアルコールを禁じる法律が成立し、パブの営業時間は制限されるようになりました。さらに禁酒協会は、アルコールが家庭に及ぼす悪影響を意識させ、幸せな家庭とはどのようなものなのかを労働者階級にもイメージさせるために、ヴィクトリア女王夫妻をモデルとします。

大英帝国繁栄の中心にあったヴィクトリア女王ですが、女王夫妻は、王室には珍しく恋愛結婚で結ばれていました。しかも女王は、公務を執りながらも、多くの子どもたちを出産して、育児を行っていました。仕事と子育ての両立を成し遂げていたわけですから、まさに理想の家族像だったわけです。そうした一家の肖像画が公開され、「幸せな家庭」のイメージが定着、協会は女王に後援会長を依頼し、女王もこれを快諾したといいます。

ヴィクトリアとアルバートと三男アーサーに贈り物を捧げるウェリントン公爵を描いたフランツ・ヴィンターハルターの絵画

労働環境の改善

19世紀半ばに始まった禁酒運動は、順調に成果をあげていきました。これは、「禁酒」を目的としている人ならば身分を問わず、誰でも仲間になれるというオープンな運動だったことが効を奏したようです。休憩時間に、お茶を飲むと作業効率が上がるといった報告もなされ、無料のお茶を準備する雇用主も現れました。

全英規模で展開された禁酒運動は、その他の方面でも良い成果をあげていきます。

まず、政府は、労働環境の向上のため、児童の酷使や長時間労働の規制、最低賃金の値上げ、食品の物価抑制といった労働者を保護する政策を打ち出しました。失業率も順調に減少、男性の雇用が安定したことにより、子育て期間中の女性が外で働かなくても良い環境も整ってきます。

また政府は、公園、図書館、博物館といった公共施設の設置をすすめ、お金をかけなくても楽しめるような社会資本の充実をはかっていきました。

第一回万国博覧会

水晶宮 クリスタルパレス

その頂点に立つのが、1851年に開催された世界初の万国博覧会です。

当初の目的は、イギリスの進んだ工業力や技術力を海外に誇示するために企画されたものですが、国民にとっては一大イベントととして迎えられました。5ヶ月の期間中入場者数は、なんと600万人という記録が残っていますので、その熱狂ぶりがよくわかりますね。これは、入場料が安く設定されていたために誰でもが気軽に訪れることができたことが一つの要因でした。

万博終了後は、展示品の多くがイギリス政府に寄贈され、政府は万博の収益金で博物館を設置、万博終了後も展示物を見学できるようにしました。

この「産業博物館」は、入場無料で、しかも夜まで開館する日も設けられていたために、仕事帰りの労働者も見学しやすいような環境が整えられていました。

この「産業博物館」は、現在の「ヴィクトリア&アルバートミュージアム」に引き継がれており、当時話題になったティーウェアのメーカーの名品なども見ることができます。

政府はこれにとどまらず、科学館や自然史博物館といった公共施設をさらに充実させます。

こうして、アルコール以外のものに人々の関心を向けることにより、アルコールに依存する人たちも少なくなっていきました。やがて、子どもにはアルコールを与えてはならないという法律も成立、子どもの健全な生活基盤の確立が図られるようになったのも、禁酒運動の成果といわれます。

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