紅茶の歴史

【紅茶の歴史】代表なくして課税なし

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プリマスロック

ピルグリム・ファーザーズ

18世紀のイギリスのお茶の歴史を語る上で、植民地アメリカの存在を避けて通ることはできません。ここで、少しアメリカの植民地時代のことを述べておきましょう。

1558年、イギリスのエリザベス1世は、カトリックとプロテスタントとの宗教争いに決着をつけるべく、イギリス国教会を確立します。これにより、カトリック総本山のローマ教会と決別したイギリスでは、プロテスタントの勢力が拡大していきます。

ところが、そのプロテスタントの中でも、結局は対立が起きており、なかでも国教会からの分離を求める人たちは、弾圧を受けていました。

そこで、1620年秋、信仰の自由を求めたおよそ100名の人たちが、メイフラワー号に乗ってアメリカにわたっていきました。この人たちをピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼びます。

同年の冬、アメリカにたどり着いた人々は、過酷な自然環境と飢えに苦しみながらも、先住民のインディアンらに助けられながら、理想的な社会を建設するために努力を重ねていきました。彼らの上陸したニュー・プリマスは、最初の植民地となります。

代表なくして課税なし

1620年以降も、アメリカへの入植は続きました。多くの人たちは、清教徒の中産階級の人々だったといいます。やがて、アメリカでもお茶や磁器は広まり、贅沢なこれらの品々は豊かな生活の象徴の一つとなっていきました。

1750年には、アメリカでもティーガーデンがオープン、喫茶の習慣はアメリカでもいよいよ盛んになります。こうしたアメリカで飲まれていたお茶は、本国イギリスからの輸入品でした。イギリスにとって、アメリカへ輸出するお茶から得られる利益も、重要な財源となっていきます。

18世紀の半ば、スペイン継承戦争などのヨーロッパでの戦争や、北アメリカ大陸でのフランスとの植民地獲得戦争など、イギリスは数々の戦争を展開していました。こうした戦争による戦費は次第に国家財政を圧迫し、さらにそこに対清貿易赤字が追い打ちをかけるようになります。そこでイギリスは、この負債を植民地アメリカにも負担させる政策をとりました。

1764年の砂糖法、1765年の印紙法というように、課税の対象を次々と広げ、これを徹底的に徴収することにしたのです。

たとえば、印紙法では、新聞やパンフレットなどの印刷物はもちろん、証書やトランプにいたるまで、日常生活に必要な紙類をことごとく課税対象とし、そのすべてに印紙を貼りつけることを義務付けました。これは、当然のことながら、アメリカの人々の激しい抵抗にあいます。

当時、アメリカに渡った人たちには参政権が認められていませんでした。ですから、イギリス本国の政策に対して意思表示をするすべを持ちません。そこで、アメリカの人々は団結して抗議行動を展開していきます。

「代表なくして課税なし」のスローガンは、こうして生まれたのです。

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