紅茶の歴史

【紅茶の歴史】茶法からボストン茶会事件、そしてアメリカ独立戦争へ

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ボストン茶会事件

タウンゼント諸法

さて、当然のことながら重い税負担にあえぐアメリカの人々は、本国のイギリス政府に対して猛反発し、抗議運動を展開していきました。これにより、イギリス政府は「砂糖法」「印紙法」を断念、廃止に追い込まれます。ですが、財政が逼迫している事態は変わりません。

そこで、今度は「タウンゼント諸法(1767)」を成立させます。この法律は、アメリカでは生産されておらず、イギリスからの輸入に頼らざるを得ないお茶、紙、ガラスなどといった品々に関税をかけるというものです。アメリカでの自給ができないわけですから、当然輸入に頼らざるを得ませんが、こうした品々は、イギリス以外の国から輸入することは認められていませんでした。

そこでアメリカの人々は、不買運動を展開して対抗します。結局、タウンゼント諸法もわずか3年で廃止に追い込まれました。しかし、イギリス政府も絶対に譲歩せずに残った課税品、それがお茶でした。

茶法

お茶は、アメリカでもこの当時は贅沢なものでしたが、すでに広く浸透し、アメリカ社会でも本国イギリス同様に必需品となっていました。そこにイギリス本国政府は、目を付けたわけです。「お茶だけは、税金が高くても買わざるを得ないはず」と。

しかし、あまりにもお茶の価格が高いにも関わらず、需要が多いという事態は、イギリス同様に「密輸」が横行するという事態を招きました。密輸の相手国は、フランス、オランダといったヨーロッパ諸国。

アメリカの人々は、自分たちを苦しめる本国イギリスの象徴ともなっていたイギリス東インド会社が運んできたお茶ではなく、密輸されたお茶を愛飲するようになりました。イギリス東インド会社の茶葉に対する不買運動を展開したのです。

これが功を奏し、イギリス東インド会社は大量の在庫を抱えることとなり、ついには、経営危機に陥りました。これは、イギリス政府にとっても大誤算であったことはいうまでもありません。やむを得ず、イギリス政府は苦肉の策に出ます。それが、1773年の「茶法」です。

これは、在庫が解消されるまでという限定つきで、イギリス東インド会社は関税なしにアメリカ植民地でお茶を販売してよいというものでした。関税さえなければ、密輸茶よりも価格は安くなります。アメリカの人々も、これなら納得してイギリス東インド会社のお茶を買うだろうと考えたのです。

ところが、もはや時すでに遅し。

アメリカの人々のイギリス本国に対する不信感は、もはや抑えようのないところまで来ていました。つまり、お茶の購入に税金がかかるかどうかなどということよりも、「問題は、アメリカには、本国イギリスの政治に関与する機会がないことである」というように、抵抗の目的が変化していたのです。

ボストン茶会事件

1773年12月、「茶法」成立後初めて、イギリスの東インド会社の船が、お茶を積んでアメリカの4つの港に入港しました。しかし、どの港でも抗議行動が激しかったため、お茶は、販売することはおろか、荷揚げすることすら難しい状況に陥りました。

そうした港の一つにボストン港がありました。ボストンの港には、3隻の船が入港していたのですが、やはり荷揚げできないまま停泊を余儀なくされていました。

激しい抵抗運動を繰り広げる人々に恐怖を感じた船長は、イギリスに引き返そうとします。とこが、イギリス政府から派遣されている港湾当局の役人が、許可など出すはずもありません。

結局、進むも退くもならず、港で立ち往生する事態となりました。そんな緊迫した状況が続くボストン港で、ついに事件が起こります。

12月16日、夜陰に紛れた「自由の息子たち」と称する50人程度の集団が、港に停泊する3隻を襲撃、積み荷の茶箱300あまりを斧で破壊したうえ、中の茶を海に投げ捨てるという暴挙に出ました。これが、世にいう「ボストン茶会事件」です。

「ボストン港をティーポットにしてやった!!」とか、「国王に対するティーパーティ(茶会)を開いた!」などと快哉を叫んだことからこの名前が付いたともいわれます。

世界史に名高い大事件ですが、当時、こうした過激な行動が必ずしも、多くのアメリカの人々の支持を得ていたわけではありません。アメリカ植民地内でも賛否は分かれたといいます。なかには、結局達成はできなかったものの、投棄されたお茶の代金を私財で賠償しようと試みようとした人もあるそうです。

暴力で主張を表現することはよくない、ということですね。アメリカの人たちの正義を、今に伝えるエピソードです。

そして独立戦争へ

ポール・リビア

ボストン茶会事件に対して、当然のことながらイギリス政府はこれを鎮圧しようと試みます。

まず1774年、ボストン港を閉鎖、つづいてマサチューセッツの自治を剥奪し、兵士宿営のための民家を徴発するといったことを定め、立法的な懲罰措置を植民地に突き付けました。

アメリカ植民地側はこれに激しく抵抗、フィラデルフィアに12の植民地代表が集まり、「第一回大陸会議」を開催します。ここで、イギリス本国議会の植民地に対する立法権を否認、経済的な断交が決議されました。

両者の緊張は一気に高まり、翌1775年4月19日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードにおいて、ついにイギリス軍と植民地の民兵が衝突するという事態が発生します。いわゆる「レキシントン・コンコードの戦い」です。ここに「アメリカ独立戦争」の火ぶたが、切って落とされました。

アメリカ植民地側は、1776年に独立宣言を発して、「アメリカ合衆国」建国を宣言し本格的な国家として動き出しましたが、1783年のパリ条約によって、イギリスがアメリカの独立を承認するまで、この戦いは続きます。

お茶を飲まないアメリカ

この7年余りも続いた戦争によって、アメリカのお茶の消費量は激減します。

さらにその20年後に再びおきたイギリスとの戦争(英米戦争)によって、両国の貿易は完全にマヒしてしまいました。輸入に依存していたお茶は、次第に入手が困難となり、やがてアメリカはお茶を飲まない国になっていきます。その一方で、カナダは独立せずイギリス本国の統治下に留まることを選択します。独立戦争当時のアメリカでも、イギリス本国への忠誠を誓った人々は、カナダへ亡命していきました。

カナダで、イギリス伝統文化のおもかげをみることができるのは、このような理由からなのです。

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