紅茶の歴史

【紅茶の歴史】ティー・クリッパーとグレートティーレース

更新日:

 

帆船

航海条例の廃止

1640年、イギリス国王と議会との対立から起きた清教徒革命。そのおよそ10年後の1651年から複数回にわたって、「航海条例」が出されました。これは、イングランドの貿易は、イングランドの船に限るとしたもので、中継貿易で栄えていたオランダ等に対抗するための法律です。1381年からたびたび出されていたもので、長い間イギリスの貿易に影響を与えてきました。

しかし、自国の貿易を保護しようとするものでしたので、やがて自由貿易を求める世の中の動きに逆らえなくなり、1849年に撤廃されます。その結果、イギリスには諸外国の船の入港が認められるようになり、これが、お茶の歴史を動かします。

クリッパー

翌年の1850年12月、アメリカのクリッパー「オリエンタル号」は、香港で1500tの茶葉を摘みこみ、わずか97日という驚異的なスピードでロンドンに到着しました。当時、中国で生産された新茶がイギリスに届くまで約1年以上かかっていました。当然のことながら、悠長に運ばれてきた東インド会社のお茶とは鮮度が違います。このことはイギリス人のお茶に対する価値観に大きな影響を与え、お茶には「鮮度」という条件が付くようになりました。

クリッパーClipperとは、「軽快に走る」という意味です。実はこの船の誕生には、アメリカ近海の事情が関わっています。

カリブ海など、アメリカ近海は、密輸船や海賊船の跋扈(ばっこ)する大変エキサイティングな海でした。もちろん、政府もこうした船を取り締まろうとします。つまり、密輸船や海賊船と、取り締まりの政府の船とのデッドヒートが繰り返されていたわけです。そうすると、当然のことながら船足には「軽快さ」が求められるようになります。

それが改良されて、「快速に走る船 クリッパーClipper」が誕生したというわけです。

驚異的な速さを誇るクリッパーが運んだお茶は、当然高値で取引されます。

となれば、英国の茶商は、悠長なイギリスの船よりもアメリカのクリッパーとの契約を進めるようになります。もちろん、こうした事態にイギリスの造船業界も焦り、これに対抗すべく船の改良に取り組むようになっていきました。

クリッパー 帆船

イギリス人の“賭けごと”好き

イギリスでは、伝統的に競馬などの賭けごとが盛んですね。速さを競うことになった茶貿易は、単なる運搬だけではなく「レース」という娯楽に発展していきました。つまり、どの船が最初に新茶を運んでくるかが、競争となり、人々はそれを予想して楽しむという習慣が生まれたのです。

新茶を真っ先に運んできたクリッパーの荷には、最高の値が付けられ、船長と船主には莫大な利益が与えられました。もちろん、この栄に浴することは大変な名誉でもありました。こうした名誉が付加されたり、報奨金や懸賞金なども設定されるようになると、クリッパーのクルーのモチベーションやプライドはさらにアップしていきます。やがて速さだけではなく、輸送の質も上がっていくようになりました。

白熱するティー・レース

さて、今年はどの船が、一番に入港するか。

ティークリッパーレースは、誰でも参加することができたので、多くの人々が熱狂するイギリスの娯楽となりました。人々は、海事新聞でクリッパーの動向(現在どのあたりか)を確認して、ティーレースの勝敗を予想します。テムズ川沿いのパブには、レースを見届けたい人々が集まり、パブが大変な賑わいを見せました。まるで、ダービーさながらの熱狂ぶり。

中国で、お茶が出荷されるのは4月と6月で、特に産地である福州の港からは、たくさんのクリッパーがイギリスへむけて出航しました。ティー・クリッパーは、喜望峰を回って大西洋に入り、セント・ヘレナ島、アゾレス諸島を経て英仏海峡に向かうというルートをとります。陸上からその姿が確認されると、ロンドンへは電報が打たれ、人々の期待をさらにあおりました。

そうしたなかから、いくつかの伝説のレースが生まれます。

The Great Tea Race of 1866

テーピン(太平)号とセリカ(絹)号

1866年5月。参加したクリッパーは11隻。そのうち、優勝候補とされていたのは、「エアリアル(空気の精霊)号」と、「テーピン(太平)号」、「セリカ(絹)号」の3隻でした。

さて、11隻は嵐のインド洋を抜け、4隻が同日にアフリカ南端の喜望峰を通過します。もちろんこの4隻のなかに、「エアリアル号」と、「テーピン号」、「セリカ号」も入っていました。

ポルトガルの西、大西洋に浮かぶアゾレス諸島を優勝候補3隻は順調に通過しますが、英仏海峡に入ってセリカ号が脱落、エアリアル号とテーピン号との並走となります。上の画像はその様子を描いたものです。優勝候補2隻は、ひたすらテムズ河口の港を目指します。

9月6日、かたずをのんで沖合を見つめる人々の前に姿を現したのは、まず、エアリアル号。

しかし、その背後にはテーピン号が迫っていました。その差、わずかに10分。

当時のティークリッパーレースは、先にドックに入った時点で勝者が決まります。実は、クリッパーは帆船ですので、風のない河川では自力走行ができません。そこで、河口からドックまで、タグボートに牽引してもらわなけければならないのです。つまり、この10分の差は、いつ、逆転されてもおかしくない時間差でした。

ところが、エアリアル号はこのタグボートとの接続に手間取ってしまいます。

迫りくるテーピン号。

観客が見守る中、テーピン号もタグボートとの連結に入りました。

しかし、エアリアル号の連結はまだ完了しません……。

先に、ボートとの連結が完了しゴールしたのは、テーピン号でした。地球半周をかけたレースは、わずかな差が勝敗を決する要因となりました。この緊迫したレースに、観衆は拍手喝采。

テーピン号には賞金が払われます。しかしテーピン号のクルーらは、勝負は互角であったとして、賞金を折半することを提案しました。このスポーツマンシップは、美談としてたちまちイギリス中に広まり、このレースは歴史に名を残す伝説となりました。

クリッパーの衰退

イギリスの人々を熱狂の渦に巻き込んだ時代の花形クリッパーですが、その衰退も早くやってきました。

1869年、スエズ運河が開通、アフリカ喜望峰を迂回するルートをとる必要はなくなったからです。しかも、この時代は蒸気機関がさらに改良され、本格的に用いられるまでに技術革新が進んでいました。強力な動力で進む蒸気船の前に、風の力を頼りに進む帆船はもはや用済みの存在となります。こうして人々を熱狂の渦に巻き込んだティー・レースはあっけなく幕を閉じました。

しかも、かのエアリアル号は、ロンドンからシドニーへ向かう途中で行方不明となり、テーピン号は、アモイからニューヨークに向かう途中で沈没、セリカ号も難破という最期を迎えたといいます。

この顛末は、日本人好みの諸行無常の物語、といえなくもないですね。

現在、唯一残っているクリッパーは、「カティーサーク号」です。近年、火災にあいましたが修復中の事故だったため、難を逃れることができました。イギリスの歴史を物語る貴重な文化財として、現在はグリニッジで大切にされています。

カティーサーク号

-紅茶の歴史
-, ,

Copyright© 紅茶探訪 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.