シルクロードでは人気なし?
中国では、すでに紀元前の時代からお茶が飲まれていたと考えられています(こちら)。当時の東西交易は、シルクロードを中心に栄えていたことは学校でも習いましたよね。シルクロードがどこからどこまでかは諸説ありますが、漢の洛陽(または長安)からローマ(またはアンティオキア)あたりを考えていれば妥当でしょう。おそらく、当時(中国が漢の時代ごろ)のお茶も取引され、西へ向かっただろうと考えられるわけですが、どうやらこの時には、ヨーロッパ方面の人々の間でお茶は定着しなかったようです。
後世、あれほどお茶好きな人たちとなるのに、不思議ですね。
マルコ・ポーロも興味なし
それからおよそ1000年がすぎ、中国は「元」の時代。1275年、イタリア商人のマルコ・ポーロが、元の皇帝フビライ・ハーンへ謁見のために訪れます。このときの旅の記録があの『東方見聞録』です。このとき、マルコ・ポーロは日本にはやってきていませんが、元での情報をもとに、「黄金の国ジパング」として日本をヨーロッパに紹介します。
これが、大航海時代への幕を開ける一つのきっかけとなりました。この時代には、お茶は中央アジアや東アジアの人々にも広まります。それぞれの地域で、今日に受け継がれている伝統的な「お茶」の飲み方や文化が誕生していきます。
日本でも、貴族や武士、仏教界で喫茶の習慣が定着しつつありました。禅僧の栄西が『喫茶養生記』を著したのは1211年のことです。
ということは、当然、元でもお茶は飲まれていたと考えられるわけですし、マルコ・ポーロもお茶を飲んだことでしょう。ところが、マルコ・ポーロは、お茶について何も書き残していません。マルコ・ポーロは、異民族の喫茶習慣には、興味を持たなかったようです。あるいは、記憶に残るようなものでは、なかったのかもしれません。
ということで、華やかな宮廷文化が花開いていくヨーロッパにお茶が広まるのは、あと200年ほど先のこととなりました。
南蛮貿易
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着したことがきっかけとなり、日本はヨーロッパとの貿易を開始します。いわゆる「南蛮貿易」です。群雄割拠の戦国時代、戦国大名らは貿易による富を求めて、スペイン、オランダ、イギリスと、ヨーロッパとの交易を積極的に行います。
南蛮貿易では商人だけではなく、キリスト教(カトリック)の布教を行うために宣教師らもやってきました。その一人、ルイス・デ・アルメイダという宣教師は、1565年、イタリアへの手紙に「日本人は“チアchia”と呼ぶ口当たりの良い一種の薬用植物をきわめて好んでいる」と書き記しました。
さらに、1595年にオランダ人海洋学者のヤン・ユイゲン・リンスホーテンは、『ポルトガル人の東洋航海記』『旅行案内書 ポルトガル領東インド航海記』という書物を著し、これらの本の中に、日本の喫茶の風習について詳しく記述しました。
彼らは、チャー(chaa)という一種の薬用植物の粉で、湯を入れたビンで夏冬に関係なく、これ以上の熱さでは飲めないというぎりぎりの熱さにしたものを飲む。紳士(上流階級)はそれを自分で作り、友人をもてなすときには、その熱い湯を飲ませる。それを入れるビンや薬用植物を保存する容器やそれを飲むための陶器のカップは、彼らによって非常に大切にされている。
春山行夫『春山行夫の博物誌Ⅶ 紅茶の文化史』
リンスホーテンの記述は、当時、戦国大名や豪商らの間に大流行し、大成されつつあった「茶道」の様子をよく描いていますね。なお、この「チャー(chaa)」は、そのままオランダ語になります。
茶貿易の開始
南蛮貿易で訪れた日本でお茶とその文化に触れたヨーロッパの人々は、この魅惑的な飲み物を本国に広めることとなります。
いよいよ、お茶がヨーロッパへ渡る時代の到来です。
1600年にイギリス東インド会社が、1602年にはオランダ東インド会社が成立したことにより、17世紀は、オランダとイギリスが東洋貿易の覇権をめぐって争う時代へと突入します。お茶はまさにその貿易の利権を握る、重要な商品となりました。
そのスタートを切ったのは、公式記録によればオランダです。1610年に、オランダ船が中国と日本で集めたお茶を、本国に送りました。こうして、東洋における茶貿易は、オランダ東インド会社が一歩リードしました。
というのも、イギリスは、江戸幕府の鎖国政策により平戸から撤退せざるを得ず、日本との交易の道は断たれてしまいました。さらに、香辛料貿易の重要拠点モルッカ諸島のアンボイナを失い、オランダに大きく後れをとることとなりました。