紅茶の歴史

【紅茶の歴史】紅茶が生んださまざまな習慣

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紅茶

お茶1杯の時間を使って

アフタヌーンティーは、それぞれの社会にあうような変化を見せながらも、次第に上流階級から中産階級の家庭へも普及していきました。19世紀後半には、上流階級のアフタヌーンティーを少し簡略化した茶会が頻繁に開かれるようになります。

これを「家庭招待会」といいます。

招待者側が、事前に在宅時間をゲストに知らせておき、ゲストは、その時間内の適当なタイミングに訪問するというものです。

多くの場合、毎週決まった曜日の午後に企画することが多かったので、その日は事前のアポなしでその家を訪ねても良いということになっていました。ただし、滞在時間は、わずかに15~20分ぐらい。つまり、ちょっとご機嫌伺いに、といった程度ですね。

お友だちを紹介したり、正式なアフタヌーンティーやディナーの約束をしたり、情報交換したりするようなものだったそうです。15~20分は、ちょうどお茶を1杯飲みきるくらいの時間です。こうした短時間で行われるものだったので、1日に数軒のお宅を回る人もあったのだとか。

子どもも“お茶”を

このように中産階級にお茶でゲストをもてなすという文化が定着すると、当然のことながら将来はそうしたスキルを持つ大人になることが必要なこととなってきます。こうした「お茶の作法」を学ぶことが、中産階級の子どもたちの必須課題となったわけです。

中産階級では、子どもの世話をするためにナニーと呼ばれる乳母が、雇われていました。映画「メリー・ポピンズ」は、この習慣を描いたものです。子育ては、乳母が中心となって専用の子供部屋「ナーサリールーム」で行いました。

子どもたちは、ナーサリールームでナニーと一緒に過ごすなかで、ティータイムやティーパーティーを経験します。こうした「ナーサリーティー」を通して、子どもたちは茶会のマナーを身につけていったのです。

ピクニックにはお茶を

0070 Picnic group

19世紀はじめから上流階級の人々の間には、アフタヌーンティーだけではなく、ピクニックも流行しました。野外でお茶を楽しむというのは、日本でもしばしば行われていますね。イギリスの人々も、外の清々しい空気のなかで、お茶を楽しみました。

やがて、ピクニックはアフタヌーンティー同様に中産階級にも広まっていきます。

上流階級の人々のピクニックは、自分の広大な領地で行われます。寛容な領主の中には、領内の身分の低い人々も招いてお茶をふるまうという人もあったのだそうです。

これに対して、中産階級のピクニックは、もっぱら郊外へ出かけます。自然の豊かな場所へ、お茶と軽食をもって行くのです。

上の写真は、その様子を描いたものです。たくさんの人たちが馬車でやってきており、たいへんな賑わいを見せていますね。家族の記念写真なのでしょうか。写真向かって右手、足を伸ばした男性のその足元には、ティーセットが並べられています。

こうしたピクニックは、やがて、鉄道の普及や公園の整備とともに盛んになっていきました。さらに、自転車が普及し始めるとサイクリングも流行。さらに競馬などの観戦の際にも、ピクニックが行われました。

19世紀は、国外ではアヘン戦争などの戦争が繰り返された時代ではありましたが、「紅茶」が誕生し、イギリス国内での需要が高まることによって、さまざまな紅茶文化が開花した時代でもあったのです。

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