紅茶の歴史

【紅茶の歴史】清への銀の流出

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紫禁城

明から清へ

イギリスは、中国から直接茶を輸入していましたが、18世紀のなかばになると、大きな問題が生じてきます。

少し時代をもどして、17世紀半ば。

1644年、中国ではついに明が滅びます。北方の小民族にすぎなかった満州族が、広大な中国を支配、愛新覚羅氏の「清」王朝の始まりです。第6代乾隆帝のころになると、皇位継承の争いや周辺の民族との争いにもある程度決着がつき、落ち着きを見せるようになっていました。1757年、乾隆帝は、以後、外国との貿易を広州に限定する方針をとります。

広州での滞在期間は、わずかに4ヶ月。商人らの居住地も制限され、取引先も公認された貿易商に限るという条件を、イギリス東インド会社は、突き付けられたのです。イギリスは、これに驚き、何とか条件の緩和を求めますが、取り合ってもらえません。

「国内で必要なものはすべて国内でまかなえる。イギリスから輸入しなければならないものは、特にない」と突き放されてしまいます。

銀の流出

時は18世紀。すでに、イギリスの国民生活において、なくてはならないものとなったお茶です。まして、茶葉にかけた関税は重要な財源の一つとなっていましたから、何としてでもイギリスは清から茶葉を輸入しなければなりません。イギリスの対清における茶貿易は、大変困難な状況に陥ることとなりました。

しかも、当時の決済は銀で行われていました。今日のように貨幣による決済ではありませんので、支払えば支払うだけ銀が国外へ流出したのです。

イギリスの対清輸出品は、毛織物や時計、インド産の綿花などでしたから、お茶や磁器などに比べればはるかに低額な商品です。完全な輸入超過に陥ったイギリスは、貿易赤字が続き、銀が国外へ流出したことにより、国内は銀不足に陥りました。

その結果、国内では銀が高騰、次第にイギリスの経済は混乱をきたすようになってきます。膨れ上がる茶貿易による貿易赤字は、財政を逼迫、イギリスは深刻な状況へと追い込まれていきました。

 

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