お茶の自給へ向けて
19世紀に入ると、イギリス東インド会社によるお茶の独占貿易に対しても、反発が強まっていきます。茶税の問題だけではなく、密輸や偽茶の問題なども深刻でした。
そこで、ついに1813年にインド、1833年には清との貿易が自由化されます。これによって、清の緑茶やボヒー(武夷)茶を扱う貿易商が次々と生まれました。とはいうものの、お茶をめぐる貿易赤字はますます拡大する一方。そこで、イギリスは清に対してアヘン貿易を行うようになりますが、そもそも非道徳的な貿易です。国内でも賛否は常に分かれていました。
そんななか、もはやこの拡大する一方のお茶の需要を清だけに頼るべきではないという動きがでてきます。なんとか、アジアの植民地でお茶の栽培ができないだろうかと考え、インドでもお茶の栽培が試みられるようになっていきました。しかし、もともと温帯の植物であるお茶は、熱帯のインドにはなかなか根付きません。栽培の試みは、難航します。
アッサム種の発見
イギリス東インド会社社員のロバート・ブルースは、植物研究家でもありました。彼は、1823年にアッサムへ遠征した折り、中国種とは異なる茶樹を発見します。
翌年、ロバートは、アッサムに自生していた茶の種と苗とを持ち帰り、植物学者に鑑定を依頼しました。このお茶こそ、中国では「大葉種」と呼ばれる品種で、後に「アッサム種」と呼ばれることになるお茶でしたが、なんとこの時植物学者が出した鑑定結果は、「ツバキ」。期待が大きかっただけに、ロバートは失意のうちに亡くなりました。
ところがその後、この植物があらためてツバキではなく「茶」であると認定され、インドでの栽培が始まります。
やがて1838年、アッサム種の原種から作られた緑茶が、インドに設けられていた「茶業委員会」のもとに届けられました。そして翌年、ロンドンのオークションにかけられ高値で落札されます。植民地での栽培とはいえ、初の国産緑茶誕生の瞬間でした。
実は、この緑茶を作った人物は、ロバートの弟チャールズ。兄の遺志を継いで、努力を重ねたチャールズの執念ともいえるお茶だつたのです。こうして、ロンドンにはアッサムカンパニーが設立され、お茶の本格的な生産への期待が高まっていきました。
アッサムの開拓
しかしながら、この事業は決して順調とはいえませんでした。
そもそも、アッサムは現在でも動植物の宝庫です。ジャングルが広がり、象やトラ、サイなどの危険な野生動物はもちろんのこと、毒蛇なども生息しています。開拓は困難を極めました。さらに熱帯特有の風土病やコレラ、マラリアといった感染症の発生で、多くの労働者が亡くなっていきました。
しかも、お茶を生産できても、輸送ルートは完備されていなかったため、なかなか輸出には至りませんでした。
ダージリンティーの誕生
それでも人々はアッサムでの努力を重ね、1850年を過ぎるころから次第に順調にお茶の生産が行われるようになっていきました。
また、アッサム種は、熱帯地域でも育つという特性がありましたので、インドだけではなく東南アジアの地域にも広まり、20世紀に入るとアフリカでもお茶の栽培がおこなわれるまでに至りました。
アヘン戦争が終結した1842年、ロバート・フォーチュンという人物が、現地の人々と接しながら清でのお茶の栽培方法や、生産方法について徹底的に調査を行いました。そして「緑茶も半発酵茶も、同じ茶樹から摘んだ葉で作られており、違うのはその製法である」ということを明らかにしたのです。
その後、園芸師であった彼は、清から譲り受けた茶樹の苗を、武夷と気候が似ているインドのダージリンでの栽培に着手、ついに製茶に成功します。
「ダージリンティー」の誕生です。
こうして、イギリス人はようやく清に頼らないお茶の供給へ向けての一歩を踏み出すこととなりました。
紅茶の誕生
ダージリンティーの誕生とちょうど同じころ、現在の福建省政和県で新しいお茶が生産されるようになっていました。
イギリスの硬水やミルクにもあうボヒー茶は、イギリスでも大人気でした。イギリスでは、硬水でもより強い味を抽出できるように発酵度を高めたお茶を求めるようになっていました。このリクエストが、ついに紅茶を誕生させたのです。
この時すでに、茶葉の外観から「緑茶」「白茶」「黒茶」がありました。紅茶も茶葉の外観は黒っぽいのですが、すでに「黒茶」があります。そこで、特別にこのお茶だけは水色の「紅」をもとに「紅茶」と名付けられたといわれています。
現在の紅茶より発酵の度合いはまだ低いものではありましたが、この製法はすぐにインドにも伝えられます。時代は、それまでの「緑茶」「ボヒー茶」から、いよいよ「紅茶」へと歴史の転換が始まることとなるのです。