清教徒革命と王政復古
1640年、イギリスではピューリタン革命(清教徒革命)がおこります。簡単にいえば、王の権限を制限して独裁をやめさせようとした革命といったところでしょうか。これに、カトリック勢力の排斥という宗教的な目的も加わります。イギリス国内は内戦状態となり、ついに国王チャールズ1世は処刑されてしまいました。
これにより、イギリスは共和政のイングランド共和国となるのですが、内戦はおさまらず、結局1660年、チャールズ2世が亡命先のフランスから帰国して即位、王政が復活します。
キャサリン・オブ・ブラガンザ
さて、そのチャールズ2世のお妃となった女性が、ポルトガル王女のキャサリン・オブ・ブラガンザCatherine of Braganza (1638~1705)です。
もちろん、この結婚は、同盟関係の強化を図るための政略結婚。この結婚により、イギリスはポルトガルから、インドのボンベイ(現:ムンバイ)、北アフリカのタンジールを譲渡され、さらにブラジル、西インド諸島への自由貿易権を得ることとなります。これにより、オランダに後れを取っていたイギリスは、ようやく海外進出の拠点を得ることとなったのです。
キャサリンは、輿入れの際に、お茶・砂糖・スパイスといった、当時の贅沢品を、船舶3隻分の船底にぎっしりと積んで持ってきました。船旅では、船酔いの防止にお茶をいれて飲んだとも伝えられます。
与えられた私邸サマセットハウスや公邸のウィンザー城には、中国や日本から輸入した茶箪笥を並べて、そこに磁器を飾りました。エキゾチックな東洋の魅力にあふれた部屋で、彼女はしばしば茶会を催します。
白い器に魅せられて
キャサリンが愛用していたのは、磁器のティーボウルでした。持つ手に軽く、抜けるような美しい白地と青の絵付けが施された器。外見の繊細さとは裏腹に耐久性も備えていた磁器は、当時は日本や中国、朝鮮半島などでしか生産されない貴重なものでした。
東洋の磁器は、たちまち人々の心を惹きつけ、上流階級の人々の間に広まり、コレクションする人もたくさん現れました。
バターつきのパン
空腹のときにお茶を飲むのはよくない、というのは現在でも聞きますね。
これは、キャサリンの時代でも言われていたらしく、彼女は、お茶を飲む前に「バターつきのパン(bread and butter)」を食べるという習慣も宮廷に広めました。やがて、これは、後のアフタヌーンティーの文化を形づくるしきたりの一つとなっていきます。
さらに彼女は、お茶に、貴重品である砂糖とサフランとをたっぷりと入れてゲストに振舞いました。なんともぜいたくです。
こうして、お茶という贅沢の上に、さらに砂糖や磁器といった贅沢を重ねて味わう宮廷文化が花開いていきます。
独自輸入の開始
キャサリンの輿入れによって、イギリス東インド会社はインド貿易の拠点を得、東南アジア経由で茶を輸入することができるようになりました。
1664年、イギリス東インド会社の船は、緑茶を王室に献上します。以降、お茶は王室への献上品の一つとなります。
やがて1669年、イギリスはオランダからのお茶の輸入を禁じ、独自の買い付けでまかなう方針へと転換します。その10年後、東インド会社主催の初のティーオークションがロンドンにて開かれました。こうして、イギリスの茶貿易は本格的に開始されていくこととなるのです。
イギリスにおけるお茶の文化の先駆けとなったキャサリンは、「ザ・ファースト・ティー・ドリンキング・クィーン The first tea drinking queen」と呼ばれるようになります。
メアリ・オブ・モデナ
華やかなお茶の文化を、イギリスの宮廷に根付かせたキャサリンでしたが、残念ながら子宝には恵まれませんでした。そこで、チャールズ2世の弟、ジェームズ2世が王位を継承します。
ジェームズ2世には、他界した妻との間に二人の子供がありましたが、どちらも王女(メアリとアン)でした。ジェームズ2世は、男児を得るために後妻を迎えます。それが、メアリ・オブ・モデナMary of Modenaです。
時に彼女は15歳。夫となるジェームズ2世は、40歳でしたから、親子ほどの年齢差です。彼女は、オランダの宮廷で最先端の教養と流行、礼儀作法を身につけてきたトップレディーでしたが、ジェームズ2世はこの時まだ即位はしておらず、二人の新居はスコットランドの田舎町エディンバラに設けられます。とても華やかな宮廷文化など、期待できるような環境ではありませんでした。
しかし、彼女はそこでお茶を楽しむ習慣を広めていきました。
新しいオランダの風
やがて、1685年、チャールズ2世が逝去し、メアリの夫ジェームズ2世が即位します。
ロンドンの宮廷に移ったメアリは、ここでオランダ宮廷の最新の喫茶の作法を広めます。当時のロンドンの宮廷での作法は、キャサリンが広めたポルトガル式でした。これに対してメアリは、オランダの宮廷で身につけた新しいマナーを紹介します。
その新しいマナーこそが、お茶をティーボウルから「ソーサーに移して飲む」というあの作法でした。
さらに、彼女は1680年代にフランスで流行した「ミルクティー」も宮廷に広めます。もっとも、このミルクティーは現在のように紅茶ではなく「濃く煮だした緑茶」です。そこへ、たっぷりのスパイスと砂糖、ミルクをふんだんに入れた「ミルクティー」は、まさに贅沢の極み。
しかも、「スプーンが立つほど濃いお茶」を頂くことが貴婦人の憧れであったといいます。つまりお茶のなかに、溶けきれないほどの砂糖を入れたお茶というわけです。そのお茶を飲んで虫歯を作り、その虫歯の数の多さを競ったという話も残っています。さすがに、今、こんなお茶を出されたら逃げ出してしまいそうですね。
さて、このように華やかな宮廷文化をイギリスに広めたメアリですが、カトリックであったために国内のプロテスタント勢力との争いに巻き込まれ、1688年、世にいう「名誉革命」で失脚、フランスに亡命することとなるのです。
※名誉革命:1688年から1689年にかけて、イギリスで起きたクーデター。ジェームズ2世が追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世が即位した。「権利の章典」が発布されたことでも知られている。