茶税
18世紀初頭、中国から直接お茶を輸入できるようになったイギリスでは、茶葉の輸入量も増加し価格も安定するようになってきました。上流階級の人々の飲み物であったお茶は、次第に中産階級の人々の家庭でも飲まれるものになっていきます。
同時に、中産階級の人たちも家にゲストを招いて茶会を催すことができるようになると、コーヒーハウスはその役目を終えて姿を消し始めました。多くの人々の間にも広く普及するようになったお茶は、政府にとって重要な税収源の一つとなっていきます。
たとえば、アン女王の時代で、1711年、スペイン継承戦争の戦費を調達するために、お茶の関税は茶葉1ポンドに対し、5シリングに値上げされました。
※スペイン継承戦争とは、スペインの王位継承権を巡って、ヨーロッパ諸国が争った戦争です。なお、これに呼応しておきた北アメリカ大陸での局地戦をアン女王戦争といいます。
茶貿易
さらにイギリス政府は、お茶を保税制度の対象とします。保税制度とは、国の認可を得た特定の場所や倉庫などに、一時的に輸入してきた荷を保管しておける制度のことです。輸入商は、一定の保管期間のなかで、商機を見極め、ここぞというときに荷を引き取ります。関税は、その時に払うという仕組みです。
一見、便利な仕組みのように思えますが、これが強制されるとちょっとやっかいです。
なぜなら、自前で倉庫を持っている貿易商にとってはそもそも不要なものですし、表現はよくありませんが脱税しにくくなるからです。逆に政府にとって、これを義務化すれば(つまり必ず政府の管轄する倉庫に荷揚げされるので)、関税を取りもらすことはなくなります。きっかり徴税することができるのです。
1717年、イギリスは、広東港での貿易権を獲得しました。それにより、大量の茶葉の入手が可能となり輸入量は爆発的に増加していきます。
さらに1721年には、他のヨーロッパ諸国からのお茶の輸入をすべて禁止、イギリス国内の茶葉は、イギリス東インド会社の独占販売となりました。そのうえ、1723年には、すでに保税制度の対象となっているにもかかわらず、お茶・コーヒー・ココア専用の「保税倉庫」を設置し、すべての貿易会社に対してこの利用を義務化、取り締まりも強化します。
茶貿易は、政府によってがんじがらめとなったわけです。
しかも、1784年までの間にイギリス東インド会社によって世紀に輸入された茶葉の関税は100%。つまり茶葉の国内価格は、原価の2倍となりました。ここに、流通や仲介、販売にかかる費用が上乗せされますので、市中に並ぶころには、とんでもない値段となりますね。
現在でも、嗜好品にはさまざまな税がかけられていますが、まさに当時のイギリス政府にとっては、お茶は「金のなる木」だったのです。
お茶の密輸
輸入にたよらざるを得ないものであるにもかかわらず、茶貿易は、イギリス東インド会社が独占しており、他国からの輸入も禁止されていたため、安く手に入れるためには密輸しかありませんでした。
オランダ、フランス、デンマークなど、各国の東インド会社は、こうした高い税にあえぐイギリスの市場に目をつけます。茶葉を輸入してイギリスに売れば、莫大な利益が得られるわけですから、さかんに密輸を行いました。
このように密輸が横行していたにもかかわらず、株主に8%の配当をつけることができるほど、イギリス東インド会社の茶葉輸入量は増加し続け、それに伴って莫大な利益を得ることができていました。つまり、それだけイギリスでのお茶の需要が高まっていたことを示しています。
偽茶
密輸されたお茶と同時に、市場に出回ったのが「偽茶」です。
18世紀になると、お茶は上流階級や中産階級だけではなく、労働者階級の人々にも知られるようになってきました。とはいうものの、人口の大半を占める労働者階級の人々にとって、お茶は夢の飲み物。本物のお茶を知らない人に、ニセモノのお茶を売りつけることは難しいことではありません。それっぽく見せれば、いいわけです。見分けることなどできません。
かくして、さまざまな偽茶が出回るようになりました。
適当な樹の葉で作った偽茶を、かさ増しのために茶葉に混ぜたり、上流階級の家庭の「出がらし」を持ち出して売るといったものは、まだ良心的なほう。色のあせた古い茶葉を、硫酸塩鉱物や羊の糞といったとんでもないもので着色して売る者までいたそうです。
こうした偽茶の販売については、実は密輸業者も関わっていました。密輸茶のなかに、偽茶を混ぜるものも出る始末。政府の厳しい取り締まりを尻目に、19世紀の半ばまでこうした偽茶は流通していました。
ですが、これはあくまでも「緑茶」のはなし。
18世紀の半ばに生まれたボヒー(武夷)茶は、抽出すると水色が赤味を帯びます。このため、ボヒー茶は偽物を作りにくかったようで、茶葉の真贋を見分ける自信のない人は、緑茶ではなくボヒー茶を選ぶようになります。こうして、ボヒー茶の人気は需要はますます高まっていったのです。
誰でも楽しめるティーガーデン
18世紀のイギリスでは、大変な勢いで喫茶の風習が広まっていきました。
もともと、イギリスをはじめヨーロッパの人々が常に飲んでいたのは、水やミルク、ワイン、エール(ビール)といった冷たいものでした。そこに、お茶、コーヒー、ココアといった温かい飲み物がもたらされたわけですから、ちょっとした物珍しさもありました。
なかでもイギリスで特にお茶が普及したのは、「ティーガーデン」の存在が大きな一つの要因のようです。
ティーガーデンは、お茶や軽食をとることができる娯楽施設です。敷地内には、ティーハウスという屋根つきの建物があり、そこではバターつきパンと、お茶や、コーヒー、ココアなどが提供されました。プロがいれるお茶やコーヒーを味わうことができたので、そうした職人技が「おいしいお茶をいれる方法」として一般家庭にも普及していったといいます。
また、この施設は身分階級を問わずに誰でもが楽しめる施設だったので、大変な人気となり、ここにやってくる馬車で渋滞が起きたほどともいいます。ティーガーデンは各地にたくさん作られ、それぞれに趣向が凝らされていました。広い敷地内には美しい木々が植えられ、人工の池や彫像が配置されていました。また、遊歩道や生け垣の迷路などの娯楽施設がもうけられていたところもあります。
ティーガーデンが増えてくると、それぞれ集客のために差別化が図られ、設備も多様になっていきます。オーケストラによるコンサート、花火、ダンスパーティーといったイベントを企画するところも出始めるようになり、無料だったティーガーデンが、やがて有料になっていきました。
入場料は、労働者階級の日給とほぼ同程度であったといわれますが、たまに楽しむ娯楽としては無理のない金額であったため、家族全員で楽しめる数少ない娯楽施設として、大いに盛況となったのです。